
1942年6月26日、政府の宗教弾圧により治安維持法違反の嫌疑で一斉検挙されたホーリネス系諸教会の教職者の中に、日本橋聖教会牧師、聖教会聖書学校塾舎監、またホーリネス信仰に立つ若手有志が結成し各地で積極的な伝道活動を展開していた「リバイバル・リーグ」の指導者でもある蔦田二雄がいた。やがて事件は裁判となり、判決、控訴、保釈と進んだが、教会は解散、教籍は剥奪、そして敗戦を迎えた。1945年9月、日本基督教団に復籍したが、そこに留まる意志はなかった。検挙、収監中の留置場、拘置所の房内で、やがて自由が与えられたなら、従来の関係なしに独自の福音奉仕を展開するよう導かれていた蔦田は、10月20日、教友との祈りの中に具体的な教団形成を決断した。獄中での「主が共にいます」との霊的体験から、新教団は「イムマヌエル」と名づけられた。また外部からも国外からも援助を受けず自給自立の方針で発足するため、また戦後の社会的必要も考慮して、伝道部(教会)を中心に医務部(病院)、保育部(幼稚園)、農耕部(農場)を含む「綜合伝道団」とした。自給自立に加え自育自展をスローガンとし、49年には伝道者養成を目指す「聖宣神学院」を創立、一方、日本各県に少なくとも一教会設立を目標に開拓伝道を進めた。
聖書信仰・聖書的ホーリネス・世界宣教の3つを、教団創設当初からのテーマとした蔦田は、福音主義聖書信仰に立つ内外の教会や指導者と連係し、48年に日本新教連盟、59年には日本宣教百年記念聖書信仰運動、その結果生まれた日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)、さらに日本福音同盟(JEA)結成に貢献した。ホーリネス信仰については福音文書刊行会(EPA)、日本聖化交友会の創設を助けるほか、ウェスレアン神学に立つ多くの書籍を出版してきた。世界宣教は、61年以降、インドはじめ世界7か国に宣教師を派遣した。